2020年10月11日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

最近、久しぶりに淀川に行き、今までさぼっていた散歩を再開しました。気温もちょうどよく快適でした。しかし夏の間、堤防の上の道の脇に生えている草が私の背より高くなっていて、人が一人、やっと通れるくらいの道幅になっている所もありました。向かいから自転車や人が来ると止まらないとぶつかってしまいます。そこで折り返したあとは堤防の下の広い道を歩いて帰りました。堤防の下の道には小さな池がいくつかあって、朝早くから釣り師たちが釣りを楽しんでいました。

 

釣り師たちを眺めながら池の脇を通っていると、あるおじいさんが魚を釣り上げました。足を止めて見ると、釣竿がほとんどしならないほどの小さな魚が釣れたようです。おじいさんはすぐにタモ網を出して魚をそこに入れました。しかしタモ網の目が魚より大きかったようで、魚はむなしくもそのまま池に逃げていってしまいました。その時のおじいさんの表情は何とも言えませんでした。一部始終を見ていた私も、思わずフッと笑ってしまいました。

 

網の目よりも釣った魚が大きくないといけませんね。その時、私はふと人生のむなしさについて考えました。私たちが一生懸命に人生を生きても、人生というタモ網の目より小さなものは残りません。ちょうどその時、イヤホンから流れていた音楽は讃美歌第2編195番の「キリストには代えられません」という賛美でした。絶妙なタイミングのおかげで、私は答えを見つけることができました。私たちの人生の網には「キリストの証し」だけが残ればいい。私たちの人生がどれだけ成功したとしても、成功の実は永遠には残りません。しかし私たちの人生を通して証しされるキリストは、いつまでも残ります。なぜなら私たちの人生という網の目よりイエス・キリストは比べられないほど大きなお方だからです。キリストには代えられません!

 

『そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』

(フィリピの信徒への手紙 3:8~9)

 

在主

林 尚俊

 

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