2021年03月07日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

関西の二府一県に発出されていた緊急事態宣言が解除され、待ちに待った会堂での礼拝が再開できることになりました。心より感謝しています。

 

二度目の緊急事態宣言の期間は本当に寂しい時間でした。なかなか人と会うことも交わることもできない状況は、牧師としても人としてもつらいものでした。そんな中で教会の皆さんと数少ない交わりの機会が与えられると、ついおしゃべりになっている自分に気づきました。それには主にあっての交わりが恋しかったこともありましたが、今思うと、どうにかして皆さんとつながらなければという焦りの気持ちもあったように思います。牧師として何とかしなきゃ、私がこんなに寂しいのなら、教会の皆さんはもっと寂しいはず。そう思って必死に何とかしようと思っていました。私の中で牧会というのは、私に任せられたイエス様の羊たちを必死にイエス様につなげておくことであると思っていたからです。そしてそのためには、まず私自身が必死で神様にしがみつくべきだと思っていました。

 

ところが、今朝読んだ聖書箇所でふと示されたことがありました。創世記32章25節です。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とありますが、この箇所をよく見ると、文章の主語が今まで私が思っていたのと全く違ったのです。「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。この文の主語は「ヤコブ(・・・)(私(・))」ではなく「何者」だったのです。この「何者」とは、この後に続く32章31節を見ると「神様(・・)」のことだと分かります。今まで私はこの箇所を読んで自分が主体になって神様と格闘するべきだと思っていました。しかし結局のところ、神様が私と格闘しておられたのです。

 

その瞬間、私は目が開かれたように感じました。私は今まで心のどこかで、教会における新型コロナという困難を自分の力でどうにか乗り越えようとしていたのかもしれません。ところが神様はそんな私と闘っておられたのです。そして神様は私に向かって「大丈夫だよ。私がここにいるから。肩の力を抜いて私にゆだねて」とおっしゃってくださいました。私たちが神様から離れようとすることはあるかもしれませんが、決して神様は私たちを手放さないということを改めて確認しました。今日も神様は肩に力がいっぱい入っている私をご自分の懐に抱きしめてくださいました。そして私を祝福してくださいました(創32:30)。主に感謝します。

 

『ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した』

(創世記32:25)

 

在主

林 尚俊

 

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