2021年04月18日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

皆さんは聖書の登場人物の中で信仰のロールモデルはいますか。私は牧師として何人か憧れの人がいます。例えば使徒パウロやペトロなど「あのような人になれたらな」と思う人がたくさんいますが、その中で一人だけあげるとしたら使徒言行録に出てくる「バルナバ」という人です。なぜなら牧師として「この人のそばでなら緊張せず、ありのままでいられる」という人になりたいからです。

 

彼の本名はヨセフですが、使徒たちによって「バルナバ」つまり「慰めの子」と呼ばれていました。聖書に記されている彼に関する部分を読むと、その名のとおりの行動や生き方が見られ、なぜか自然と心が引かれます。彼のことが最初に出てくるのは使徒たちによって宣教が開始された時ですが(使徒4:36)、当時、財産のある人たちがそうしていたように、彼も自分の畑を売って教会活動を助けました。確かに彼は、聖書に記されているように「立派な人物」だったのです。

 

しかし彼が「慰めの子」と言われた理由は、立派な人というより他者に対する態度にありました。例えばバルナバは、使徒パウロが「迫害者サウロ」からキリスト者になったばかりで、エルサレム教会の人たちがサウロのことを半分疑い恐れていた時、彼を使徒たちのところに連れてきてその身に起こったことを説明し、恐れを取り除こうとしました。その後、彼はアンテオケ教会の開拓のためにエルサレム教会から派遣されましたが、その時パウロと共に信徒の指導にあたりました。その時の様子が聖書には「バルナバは彼を引き受け」と記されています。新約聖書のほとんどを書いた使徒パウロは、自分を引き受けてくれたバルナバの器の大きさと温かさによってその使徒としての良さが生かされたでしょう。

 

「バルナバ(慰めの子)」という名前は、私たちキリスト者なら誰でも持つべき名かもしれません。なぜなら聖書は彼のことを「聖霊と信仰とに満ちていた」と証ししているからです。キリスト者は聖霊と信仰とに満ちている人です。ですから「あのような人になれたら」で終わるのではなく、少しずつでも近づいていくべきではないかと思いました。私たちの教会共同体の交わりの中に、「バルナバ」のように周りの人の良さを見出して、その人を生かす人がたくさんいたらどんなに素晴らしいことでしょうか。何よりもまず私にその部分が足りないので、そう思ったのです。

 

『バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。』(使徒言行録 11:24)

 

在主

林 尚俊

 

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