2021年05月16日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

今日は私が大好きな讃美歌について分かち合いたいと思います。ベンヤミン・シュモルクという牧師がいました。彼は宗教改革以降、中央ヨーロッパのカトリック教会とプロテスタント教会の間で起こった宗教戦争である30年戦争のあと、ドイツの小さな町でルター派教会の牧師として働いていました。当時の多くのカトリック教会は石造りの大きく立派な教会でしたが、彼が牧会していたルーテル教会は木と土の壁で作られた古くて小さな教会でした。牧師館はなく教会の2階に息子2人と妻の家族4人で暮らし、使命をもって神様と教会に仕えていました。

 

1704年のある日のことです。いつものようにシュモルク牧師夫婦は教会に幼い息子2人を残して信徒の家を訪問しました。そして訪問を終えて教会に戻ると、木造の小さな教会が何者かに火をつけられて燃えていたのです。慌てて息子たちを捜しましたがどこにもいません。やっとのことで火が消されたあと、焼け跡にあったのは抱き合ったまま死んでいる2人の息子でした。彼らは息子たちを抱き締め泣きながら神様に祈りました。

 

わが主イエスよ 愛の御手に身もたまをもゆだねまつり/

禍(まが)に幸(さち)に われ言わまし

主よ みこころ なさせたまえ

うれいの雲 むねをとざし 涙の雨 袖にかかり/

わがのぞみは 消えゆくとも

主よ みこころ なさせたまえ

はかなき世を わたるときも あまついえにのぼる日にも/

ただみむねに まかせまつらん

主よ みこころ なさせたまえ

 

後にこの祈りに曲がつけられ讃美歌になりました。それが讃美歌365番の「わが主イエスよ」です。一生、神を愛し、主だけを見上げてきたのに、その報いが愛する我が子たちの悲惨な死でした。彼らはそこで絶望してすべてを投げ捨てることもできました。しかしこのような受け入れ難い最悪な状況でも彼は神のみこころを求めて祈りました。彼らは信仰を選んだのです。

 

イエス様も十字架につけられる前ご自分に与えられた使命について祈られました。その使命は私たちの想像を絶する苦しみでした。しかしイエス様もその時、御父のみこころだけが成し遂げられることだけを求めて祈りました。神様のみこころはキリストの命の代わりに私たち罪人に命を与えることだったからです。

 

今、コロナ禍の私たちの目の前にも、耐え難い状況が連続して起こります。心理的、物理的な脅威が私たちに襲いかかります。このような時に私たちは、ただ「主よ、みこころ なさせたまえ」と祈りましょう。なぜなら「主のみこころ」は私たちにとって一番善いものだからです。

 

『……「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」』

(マルコによる福音書14:36)

 

在主

林 尚俊

 

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