2021年07月04日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

神学校の授業の中で臨床牧会教育という科目がありました。その名の通りいわゆる牧会カウンセリングを学ぶ科目です。臨床心理学の基礎や医療現場の実例と実際のカウンセリングについて学びました。この科目は不思議と必須科目ではなく、受講する学生も少なかったこともあり、わりと単位は取りやすい科目だと聞いていました。授業中、私たち学生は被相談者(困ったことがある人)の気持ちを味わうために、最初の何回か教授と一対一でカウンセリングをします。私は別に大きな問題もないし一時間半も何をしゃべればいいのか分からず困ってしまいました。きっとすぐに終わるだろうという軽い気持ちで相談を始めました。しかし被相談者を演じるつもりで始めたカウンセリングがとんでもないことになったのです。つい深く入り込んでしまい時間が大幅にオーバーしてしまったのです。当時、教授はいくつか質問をしながら、ひたすら私の話を聞いていただけでした。ところが私は時には涙まで流しながら話をした記憶があります。本当に不思議な経験をしました。そして授業の最後には、自分がカウンセラーになって学生の一人にカウンセリングをし、それが評価されます。もちろんプライバシーがあるので、任意のテーマを決めて役割を演じながら相談をするという形でした。

 

私はこの授業を通して多くのことを学びました。それはこの世には問題のない人なんか一人もいないということと人の話を傾聴することの大切さです。その授業の最後に私が教授からいただいた評価のコメントはとても恥ずかしいものでした。今も鮮明に覚えています。「あなたは被相談者としては最高だけど、カウンセラーとしては、あまり才能はないね」。つまり語るのは上手だけれど、聞くのはとても下手だったということです。カウンセラー役をした時、途中で被相談者の話を止めて「こういう場合はこうしたほうがいいですよ」なんて、偉そうにアドバイスをしてしまったため、カウンセラーとして向いてないという評価になったのです。

 

私は、このような弱点を実は今も持っています。妻との会話の中でも、話を聞いて共感しようと努力するより、つい解決策を出そうとします。するといつも「解決策は要らないから話を聞いて」と言われるのです。よく考えると私の周りにいる聞き上手の方は、特に相談学など学んだことのない方が多いことに気づきました。ただ聞いてあげることに学問など必要ありません。

 

皆さん。先週は久しぶりに教会で交わりをすることができました。本当に嬉しかったです。その時に皆さんが久しぶりにお話をする姿を見ながら、聖徒の交わりは互いの話を聞くことから始まるということを改めて感じました。ですので皆さんもたくさん話を聞いてあげてください。そして私にもたくさん話してください。今度は頑張って、ちゃんと聞こうと思っています。

 

『わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい』(ヤコブの手紙 1:19)

 

在主 林 尚俊

 

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