2021年12月19日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

以前、韓国で伝道師として奉仕していた時、当時私が担当していた中高生たちを連れて韓国ソウルにある外国人宣教師墓地に行ったことがあります。その名のとおり、そこは韓国の福音伝道のために命を捧げた多くの宣教師たちのための墓地です。15か国147名の宣教師とその家族のお墓がありました。中には3代にわたり韓国の宣教のために献身した家もありました。その子孫が今も韓国に残って宣教をしています。その中で墓碑に刻まれた一人の日本人宣教師の名前が目に入りました。曽田嘉伊智(そだかいち)です。

 

韓国孤児の父といわれる曽田宣教師はソウルで鎌倉保育園という保育園を経営し、夫人とともに約30年にわたり多くの孤児を育てました。山口県で生まれた曽田先生は、25歳の時にノルウェーの船員として香港に滞在し英語を学んだ後、台湾でドイツ人経営の工場で通訳として働きました。31歳の時、台湾で酔っぱらい道端で行き倒れた時、ある韓国人が彼を発見し近くの旅館に連れていってくれたそうです。その人はまるで聖書の中の良きサマリア人のように、宿泊費や食費を払ってくれたのです。自分を助けてくれた人が韓国人であるということしか分からなかった彼は、それがきっかけで韓国に恩返しをしたいと願い38歳で韓国に渡りました。

 

その後、ソウルのYMCAで日本語教師として働く中、韓国の有名なクリスチャンの独立運動家である李商在(イ・サンジェ)先生に出会い、彼が伝えた福音を聞き、自分の罪を認め、キリストを信じ、クリスチャンとなりました。41歳の時、同じくYMCAで英語の教師を務めていた熱心な日本人のクリスチャンである上野タキ氏と結婚し、教会の伝道師として活躍しました。さらには鎌倉保育園のソウル支部長・園長として韓国で孤児の保育活動に当たり、千人以上の孤児をキリストの愛をもって育てたのです。

 

太平洋戦争後1947年に、彼は単身、一時日本に帰国しましたが、韓国戦争などで再入国が困難となり、韓国に残っていた愛妻の葬儀にも参加することができませんでした。しかしその後「韓国こそ、私の故郷」という彼の強い意志と、キリスト教関係者の尽力もあり、韓国側の招請によりソウルに戻り、1962年、ソウルで地上の生涯を全うしました。95歳でした。

 

1962年、曽田宣教師が亡くなった時、韓国の赤十字社やYMCAなどが中心となって盛大な社会葬が行われました。そして日本人として初めて韓国の政府から勲章を受けました。曽田宣教師ご夫妻によって育てられた多くの子供たちは、その後、韓国の近代化や戦後復興のために役立つ重要人物として成長したそうです。彼の墓碑には「凍えていた手を握り、傷ついた心を抱きしめ、一生涯、尊い道を歩み切った。心あればそこが故郷」と記されています。もちろん私が日本の教会で宣教師として働いているのは曽田先生に直接的に影響を受けたからではありませんが、少なくとも、先生が韓国と韓国の魂を愛したように、私も神の愛で日本と日本の魂を愛しつくしたいと思っています。

 

命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。

(ローマの信徒への手紙 16:4)

 

在主 林 尚俊 

 

牧師室より トップ