2022年02月13日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

先日、ニューヨークにある公共図書館が街角の雑踏や地下鉄の喧騒など「今聞けなくなった音たち」を集めたアルバムを制作し、配信サービスを始めたというニュースを見ました。ふだんなら騒音として聞こえていたはずのラッシュアワー時の車のクラクションの音や街角の雑踏、地下鉄駅にこだまする喧騒、野球場のスタンドに響く観客の声援、レストランを埋めるディナー客の会話や食器の触れ合う音など、コロナ前のニューヨーク市内にあふれていた活気ある物音を恋しく思っていたニューヨーカーたちから、多くの反響があったそうです。人に会えず離れ離れになっているかつてない日々の中で、今は聞けずに寂しささえ感じる聞きなじみのある物音は、この街に暮らす人たちに再びつながりたいという希望をもたらしてくれたでしょう。

 

ニュースを見たあと、私も礼拝堂にあふれる皆さん賛美の声、礼拝の後のほんの短い時間に交わされるおしゃべりの声、非接触型の体温計のピッピッという音さえ恋しく思っていたことに、ふと気づかされました。今は聖日になっても礼拝堂に人の息の音すら聞こえないほど本当に静かです。誰かの息の音を恋しく感じるようになるとは思ったこともなかったので、寂しくなりました。人々が立てる物音の中で、特に誰かの息の音が、どれほど私たちにとって安心の材料になっているのかと初めて気づきました。たとえそれが知らない人の息の音であっても、寂しい時には慰めになるでしょう。ましてその息の音が、愛する家族、親しい友であるならばなおさらのことでしょう。息の音が聞こえるということは、もちろん誰かが隣にいるという証拠であると同時に、私が生きている証拠でもあるのです。

 

昔見た韓国のあるドラマの中で、男性主人公が電話の向こうで黙っていた恋人に「せめて息の音でも聞かせてよ」と言ったセリフを思い出しました。その時は別に何の感動もなかったにですが、今思うと彼は本当にその人に会いたかったでしょうね。ちなみに私は最近、寝る前にベッドで深呼吸をしてから寝るようにしていますが、その音がどうやらちょっと激しかったようです。いつも先にベッドに横になっている妻は、私の激しい深呼吸の音が気になったのか、どうツボに入ったのか、隣で大笑いをされてしまいました。同じ息の音でもあまりにも大きな息の音だと、かえって邪魔になることもあるようです。気を付けないといけないなと思い、最近はできるだけ存在感を消して、静かに深呼吸するようにしています。

 

神様は私たちを創られる時、ご自分の息を与えてくださいました。それによって私たちは生きる者となったのです。そしていつも私たちをご自身のすぐ近くにいさせてくださいました。本来私たちは神様の息を感じながら生きる存在です。ですから私たちが苦しい時、寂しい時、また悲しい時には、神様の息を感じることができれば揺らぐことはないでしょう。神様の息は、み言葉を通して伝わり、また私たちの息は、祈りを通して神様に伝わるのです。

 

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 (創世記2:7~8)           

 

在主 林 尚俊 

 

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