2022年02月20日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

私が大好きな韓国語の詩の中で金春洙(キム・チュンス)という詩人が書いた『花』という詩を紹介したいと思います。

 

私が その名を呼ぶまでは それは ただ一つのしぐさにすぎなかった

私が その名を呼んだ時 その人は 私のもとで花になった

私が その名を呼んだように

私の この色と香りにふさわしいだれかが 私の名を呼んでください

その人のところで 私もその人の花になりたい

 

全部訳すと長いので一部だけを訳しました。私は文学的なセンスがあまりないので、より美しく、いわゆる詩的表現で訳すのは難しいのですが、大体こういう意味です。いろいろと考えさせられる内容ではないでしょうか。ある存在の価値は、他の者からどのように呼ばれるかによって決まるということですね。

 

詩編2:7で神様は私たちを「わたしの子」と呼んでくださいました。神様にとって私たちは、ご自分の子としての価値があるということです。しかもその価値は、私たちのためにご自分の御子キリストの命さえも惜しまずに与えるほどでした。では私たちにとって、神様はどのような価値があるのでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙で、私たちが神様の御名を呼ぶだけで救われると語りました。私たちにとって神様の御名は、永遠の命という価値があるということです。ということは、御名を呼ばないと「命はない」ということです。ですから御名を知らない人がないように、御名をこの世に伝えるようにおっしゃったのです。

 

このような話になると、いつも私たちの中には一つの疑問が湧きます。それは神の選びと福音伝道の関係です。神に選ばれた者は必ず救われるという観点から見ると、この二つが矛盾しているように思える場合もあります。しかしパウロは「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」とはっきりと言っています。またコリントの信徒への手紙一1:21には「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」とあります。さらにテトスへの手紙 1:3では「神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです」と言っています。神様はご自分の御名を呼ぶことによって先に救われた私たちを、ご自分の御名を伝える道具として用いることを定めてくださいました。伝道(宣教)によってあらかじめ選ばれた者が救われるのですから、神の選びと伝道(宣教)は矛盾していません。むしろ伝道は神の選びをこの世に示すための道具なのです。その道具によって、この世は神の御名を知り、その御名を呼ぶことができるのです。

 

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。

(ローマの信徒への手紙 10:13~14)           

 

在主 林 尚俊 

 

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