2022年08月07日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

先週の聖日、私たち森小路教会の最年少であるS君が久しぶりに教会に来ました。元気そうで何よりでした。そしてS君は牧師の祈りのあと、大きな声で「アーメン」と言ったのです。とてもうれしくなりました。あとでS君のお母さんのL姉に聞くと、ふだんの生活の中でもお祈りをして「アーメン」と言うように教えているそうです。その話を聞きながら私は自分の子ども時代を思い出しました。

 

韓国の教会では、積極的な祈りの生活を送ります。多くの韓国の教会は、付属施設として地方に祈祷院を持っているのです。私の母教会もソウル市内から少し離れた静かな場所に祈祷院がありました。教会員が個人的に祈りたいことがあれば自由に祈祷院に行けるようになっています。私の母と祖母もよく祈祷院に行き、徹夜しながら祈ったりしていました。夏になると特別な断食の祈りの期間が設けられます。ちょうど子どもたちが夏休みの時期です。おそらく私が小学校の3年生か4年生の頃だったと思いますが、その年の夏休み、祖母と母が一週間の断食の祈りのために祈祷院に入る準備をしていました。二人が荷造りをする姿を見ていた私は、祖母と母だけで楽しい旅行に行くと思えたのか、一緒に行きたくなりました。そこで「僕も行きたい」と言うと、母は「一週間、断食して祈るために行くけど、大丈夫?」と聞きました。断食の意味もよくわからなかった私は、とても楽しそうに見えたので、さらに強く一緒に行きたいとねだりました。そしてついに祖母が「いいんじゃないの?」と言ってくれたのです。やったー! よくわかりませんが人生初の断食の祈りと言う大冒険が始まります。

 

いよいよ祈祷院に着きました。大自然に囲まれた祈祷院の広い敷地には大きな礼拝堂があり、その周りには個人が寝泊まりしながら祈れるように小さなコテージがたくさんあります。さらに楽しいキャンプ感が増してきました。楽しくなりそう! しかし、そんな私の期待が大きな勘違いであったと悟るまで、そんなに時間はかかりませんでした。さっそく人々が礼拝堂に集まり、長い礼拝が始まりました。私の記憶では、一週間、毎日朝晩共に集まって礼拝を捧げる以外は、それぞれ自分たちのコテージにいて祈ることしかしませんでした。しかも祈祷院に子どもは私一人しかいなかったので一緒に遊ぶ友達もいません。そして「断食」の意味が、ご飯もおやつも食べないことであると悟ったのもその日のうちでした。さっそくその日の夜には帰りたくなりましたが、そもそも自分で無理を言って来たので、自分の口から帰りたいとは言えません。丸二日間、何も食べなかった私は、幻が見えたり、人には聞こえない神様の声が聞こえた気もしました。もちろん霊的に覚醒したからではありません。結局三日目の朝、私は降伏宣言をしました。そこで母が管理人の方にお願いをして、彼らの大事な食事を少し譲ってもらい残りの時間を忍ぶことができたのです。私の真夏の霊的な大冒険は失敗に終わりました。今も私は、断食の祈りは苦手かもしれないなと勝手な自己弁明をしています。しかし、それでもこのような子ども時代の教会生活の経験は、今の私にはとって何にも代えられない素晴らしい宝です。ぜひともこの教会の子どもたちも、たくさんの経験を教会でしてほしいと思いました。

 

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 (ヨハネ 1:12~13)

 

在主 林 尚俊

 

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