2023年2月5日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

今年に入り、もう2月になりました。まだまだ寒い日は続いていますが、大阪城の梅林からは梅の花の開花の知らせが少しずつ聞こえてきました。今年はまだ行っていませんが、ロウバイや冬至梅、寒紅、そして水仙などはすでに咲いているようです。そのうち見に行こうと思っております。なぜか今年は特に春が待ち遠しく感じます。例年より寒い冬を過ごしているからでしょうか。このように何かを待つということは、私たちの人生における代表的な逆説ではないかなと思いました。なぜならば待つと言うことは、苦しみがあればあるほどさらにその向こうにある報いに期待するようになるからです。

 

ノーベル文学賞を受賞したサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』という戯曲をご存じでしょうか。フランス語のタイトルは『En attendant Godot』で、登場する二人の主人公が、会ったことのないGodot(ゴドー)という人物を待ちながら、その過程で様々な人々と出会い、誰かを待つことに対する葛藤などを斬新な方法で描いた戯曲です。世界的にヒットし、おそらく日本でも人気のある演劇の一つだと思います。

 

この作品の最後は、二人の主人公が自殺を試みるものの失敗する場面で終わります。劇中でGodot(ゴドー)という人物が誰なのかは明らかにされませんが、多くの評論家は、Godotが英語のGodを意味し、神の救いを待つ二人の人間の絶望的な人生を描いた作品であると考えています。サミュエル・ベケットは第二次世界大戦の時、ドイツのナチスに対抗して戦いましたので、その時、彼が切に待ち望んだ平和や救いに関する経験をこの作品に反映したと思われるからです。この作品は悲劇ですから悲しい結末で終わります。私はこの作品を再び思い出しながら、神の救いがこの世に訪れないのではなく、私たち人間が望むような形で神の救いが訪れるのではないということを改めて悟りました。神様の救いは、神様の時間に、神様が望まれる形で訪れるのです。

 

確かに、時には何かを待つと言うこと自体が長く、また苦しく感じられることもありますが、本当は、待つということは希望であり喜びです。今の私たちの歩みも待つことの連続ですね。多くの人々は何よりもまず毎週日曜日を待っています。そして今の時期は季節的に暖かい春を待っています。そしてコロナが収束してコロナ前の日常に戻ることも切実に待っています。それから大変恐縮ですが、私のこの手紙を楽しみに待っておられる方もいらっしゃると聞いたこともあります。そして何よりも私たちキリスト者が待ちに待っているのは、主の再臨ではないでしょうか。なぜなら私たちは、いつか主が来られる時に神様の御国に招かれることを知っているからです。

 

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。(ヨハネの黙示録 22:12)

 

在主 林 尚俊

 

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