2024年6月9日

愛する皆さま

 

主の御名を心よりほめたたえます。

 

ある日の朝、朝ごはんを食べながら妻といろいろと話をしましている中、「平等と公平」についての話になりました。もちろん私たち夫婦の間に平等と公平の話をしなければならないほど不公平が起きているというわけではありませんのでご安心ください。とにかく2つの言葉は一見、ほぼ同じ意味を持っているように思えますが、実は大きく違います。「平等」は英語で「Equality」、差別がなく等しいことです。特に人間の価値や権利について使われる言葉で、例えば「平等に分ける」や「男女平等」、「平等の権利」などと言いますね。一方「公平」は英語で「Equity」、判断や対処の仕方がどちらにも偏らず中正なことを意味します。言いかえればそれぞれの状況に合わせて対応を変えて、全員が同じ機会を確保できるようにすることです。これを私なりに分かり易く考えましたが、社会全体のインフラは誰もが利用できるように「平等」に与えられるべき事柄である一方、社会福祉はすべての人の人間らしい生活を支えるために、それぞれに合わせて「公平」に施されるべき事柄であると理解しています。

 

一般的にこの2つの概念を分かり易く説明するために用いられる有名なイラストがあります。下のイラストです。

(https://unifywestfield.org/news/equity-versus-equality/)

このイラストを見ると高い壁の内側にそれぞれ背の高さが違う3人が立って外の様子を見ようとしています。それぞれの足元に同じ高さの足台をおいてあげることが「平等」であると説明しています(左側の絵)。しかしその壁が高すぎるため、背の低い人は足台に乗っても、結局、外を見ることができません。この絵だけだと「平等」というのは、ある意味、理不尽なところもあることになりかねません。

 

これは本当の意味での平等を説明するためのイラストではないと、私は個人的に思っています。なぜなら本当の意味での平等は、誰もが外を見ることができるように十分に高い足台を備えてあげることだからです。つまり背が高い人も、低い人も皆、同じように十分に高い足台に乗れば、外を見ることができます。そうなってこそ初めて本当の意味での平等になるのではないでしょうか。私たちがこの絵のように平等に対する間違えた認識を持っているのは、今の私たちが、全体的に低い水準の平等を本当の平等であるかのように思わせる環境で生きているからかもしれません。一律に低いレベルの機会が与えられたことで、それ自体が平等であるかのように認識しているのですが、本当の意味での平等は、誰もが十分満足できるように与えることではないでしょうか。

 

私たちの主イエスは、ご自分の宣べ伝えられた福音を聞いて、信仰によってキリストを救い主として告白すれば、誰でも救われるとおっしゃいました。つまりどんな罪人であっても信じる者は救われるように、天の御国に届くほどの高い足台、つまり救いの御業を成し遂げられたのです。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネ3:16)

 

在主

林 尚俊

 

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