2024年9月8日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

私の母校である東京神学大学の教授だった北森嘉蔵先生が書いた組織神学の本の中に『神の痛みの神学』という有名な著書があります。この本は日本の神学者たちはもちろんドイツの有名な神学者たちにも大きく影響を与えたほど新しい概念を生み、日本の神学会において大きな意味を持つ本です。もちろん北森先生は私が神学校に入る大分前の1998年に天に召されたので一度もお会いしたことはありませんが、私も神学校時代にこの本に出会い夢中になって読んだ覚えがあります。私がこの本を読んだきっかけは当時の私の論文の指導教授の勧めがあったからです。つまり自分で好んで選んだわけではありません。

 

当時の私は、まだ学風といいましょうか、神学的な立場といいましょうか、とにかく今まで自分が学んできた神学とは少し違うものだったので、神学的な葛藤を覚えていた時でした。その時、教授に悩みの相談をすると、私の話を聞いた教授は日本の神学を理解するためには日本ならではの神学の概念ともいえる北森嘉蔵師の『神の痛みの神学』を読むことを勧めてくれたのです。

 

私はさっそく図書館に行き書庫の奥の方に眠っていた本を見つけました。比較的に薄くて読みやすい本でしたが本を手にした私は思わず「神の痛みの神学かぁ~」とつぶやいてしまいました。なぜなら「神様が私たち人間のように痛みを感じられるのだろうか」という疑問が生じたからです。当時の私にとって私たち人間の目線で擬人化された神様について語ること自体が、一種の神聖冒涜にも聞こえたのです。しかし教授に読むように言われたのでしかたありません。内容について同意しなくても少なくともことごとく厳しい反論をしてやろうと思い、さっそく読みはじめました。

 

大分前の話ですので詳しく覚えていませんが、いまだに心に残っている文章があります。北森師は文語訳聖書のエレミヤ書31:20の「ヱホバいひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓かれの爲に痛む我必ず彼を恤むべし」を根拠に次のように述べていたのです。

 

「さばきの神と赦しの神が同一の神であるとき、罪人に対する愛と赦しは神の矛盾と葛藤すなわち、『痛み』なしにはありえない」

 

今もこの中の「矛盾と葛藤」という言葉には引っ掛かりますが「痛み」という表現に関しては同意しています。もちろん神様が私たち人間のような痛みを感じるわけではありませんが、真の人間としてこの世に来られた主イエスが私たちと同じような痛みを感じられたことは間違いありません。ここで言う痛みとはご自分の十字架の上での物理的な痛みではなく我々罪人に対して覚える痛みのことでしょう。主イエスはその痛みを十字架の上で背負ってくださったのです。そしてその大いなる恵みによって私たちの痛みはすべて取り去られたのです。

 

それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。(ヘブライ人への手紙 13:12)

 

在主

林 尚俊

 

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