2024年12月22日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

私が日本語を学ぶために日本語学校に通っていた時の話です。授業の中で反対語について学んだことがありました。クラスのレベルによりますが、それぞれのレベルに合わせた反対語を学びました。例えば初級クラスでは、「上」の反対語は「下」だとか「裏」の反対語は「表」など、小学校1年生のレベルの反対語から学びますが、クラスが上がるにつれてだんだんと難しい言葉を学びます。反対語だけでなく、対応語や対義語というものも一緒に学んだ記憶があります。なぜかその中で「相酌(あいじゃく)」の反対語が「手酌(てじゃく)」という、どうでもよいつまらない言葉を今でも鮮明に覚えています。

 

その時、担当の先生が私たち学生に「では皆さん、日本語の『ありがとう』の反対語は何だと思いますか」と質問しました。それに対してさまざまな答えがありました。「不感謝」とか「無感謝」とか、それなりに考えて答えた人もいましたが、どれも正解ではありませんでした。そこで先生は黒板に「有難う」と書きました。そして意味を丁寧に説明してくださったのです。本来「ありがとう」という言葉は「有る」に「難い」と書くので、「あるのは難しいこと」、「貴重なこと」です。つまり「ありがとう」は、普通はあり得ない特別なことをされた時、相手に感謝の気持ち表す言葉から生まれたとのことでした。ですから人々に「ありがとう」と言う時、「あなたが私にしてくれたことは普通ならあり得ないほどの大きなことですよ」という意味になるわけです。というわけで「ありがとう」の反対語は「当たり前」だと先生は言いました。確かに人が自分にしてくれたすべてのことを当たり前に思ってしまうと、決して「ありがとう」という気持ちは湧かないでしょう。

 

今年も残りあとわずかです。この一年を振り返ると、たくさんの出来事がありました。中には、もちろん悲しい出来事も嬉しくない出来事もありましたが、よくよく考えてみますと、意外とありがたいこともたくさんありました。それらのことに対して心から「有難いこと」であると受け入れたか、それとも「当たり前なこと」として受け入れたかを考えてみましたが、意外と多くのことに対して「当たり前」に思っていたことに気づきました。例えば妻が美味しい朝ごはんを作ってくれたこと、毎日の掃除や洗濯などのほとんどの家事をしてくれることに対して、もちろん感謝の気持ちは持っていますが、それが本当の意味で「有難いこと」であるとは思っていなかったかもしれません。どこかで当たり前だと思っていたかもしれません。それ以外にもたくさんありました。朝起きて普通に一日を過ごすことも、毎週聖日に礼拝を捧げられることも、ある意味、当たり前だと思っていたかもしれません。しかしそれ自体も決して当たり前ではないと改めて示されました。

 

そして何より私たちにとって「有難い」ことは、神様がご自分の大事な御子イエス・キリストを私たちのために与えてくださったことではないでしょうか。クリスマスの出来事こそ本当の意味で「有難いこと」でしょう。皆さん、メリークリスマス! そして、この一年間もありがとうございました!

 

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙 5:8)  

 

在主

林 尚俊

 

牧師室より トップ