牧師室より

2025年1月26日

愛する皆さま

主の御名を心よりほめたたえます。

 

先日、私たち森小路教会が属している西部連合長老会において、とてもおめでたいことがありました。皆さんもご存じのように約2年間の無牧の期間を終えて、やっと新しく牧師を迎え入れた神戸神愛教会のI牧師の就任式があり、牧師夫婦と何人かの長老が喜ばしき恵みを祝うために行ってきたのです。多くの教会から大勢の方が出席し、共に祝いながら感謝の礼拝を捧げました。式の間、就任式の当事者であるI牧師はもちろん、神戸神愛教会の皆さんの顔から、絶えず笑顔があふれていたため、同じ中会に属している教会の牧師としてとても嬉しい思いでした。長い間、牧師不在の中で毎週欠かさず礼拝を守らなければならなかった教会の皆さんにとって、何よりも嬉しい時間だったことでしょう。そしてお互いに神様が与えてくださった大事な存在であると受け入れているように見えて、とても安心しました。

 

この就任式をきっかけに、改めて教会共同体における牧師の存在について考えました。実は聖書には「牧師」という言葉はありません。牧師という言葉は、あとから教会の中で便宜上作られたものです。もちろん根拠は聖書の中にあり、「牧者(羊飼い・ギリシャ語のポイメーン)」から来た言葉です。私たちの大牧者なるイエス様が弟子ペトロに「わたしの羊を飼いなさい(ヨハネ21:17)」と語って教会を託したことから、神様のみ言葉の取り次ぐ奉仕を通して教会の群れを養う務めが任された者を「牧師」と呼ぶようになりました。ですから私も自分のことを紹介する時に「森小路教会の牧師です」とか「森小路教会で牧会をしています」と言います。

 

より厳密に言いますと「牧師」は、み言葉を取り次ぐ者という意味でよく使われ、「牧者」はそれより広い意味で教会員を霊的な意味でケアするという意味でよく用いられます。良い牧師(牧者)は羊たちを豊かな青草の原に導き、おなかいっぱい良い草(み言葉)を食べさせることはもちろん、羊たちを守る良い柵も用意する義務があります。これが大牧者であるイエス様から託された牧師の働きです。もちろん形だけ、そのような働きを真似することもできます。聖書はそのような人たちを「牧者(羊飼い)」とは呼ばず「雇い人」と呼んでいます。

 

そこで私は自分に問いかけてみました。「私は良い牧師で、また良い牧者か。それともただの雇い人か」と。その結論は私が出すべきものではありませんが、少なくとものちにイエス様が再び来られる日、イエス様から「よくやった、忠実な僕よ」と言われたいのは確かです。ですから皆さんもこの足りない牧師(牧者)のために、どうか祈ってください。

 

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

(ヨハネによる福音書10:11~13)  

 

在主 

林 尚俊